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8.「日本人」のファンタジー(真琴シナリオ)
真琴シナリオについては、ほとんど不評を聞きません。それほど完成度が高いシナリオです。ここでは、上手な作品作りのお手本として、真琴シナリオの構造を分析してみたいと思います。
■ 真琴シナリオのファンタジー
私の『Kanon』の構造の定義に従えば(ジュヴナイルファンタジー)、真琴シナリオは、『Kanon』の中でもっとも完成されたファンタジーであり、ジュヴナイルです。
真琴シナリオがファンタジーとして成功したのは、日本人ならば誰もが知っている「鶴の恩返し」に代表される昔話の類型を引っ張ってきたからです。ファンタジーとして「納得」しやすいお話だったのです。
日本人(正確には、日本の昔話に慣れ親しんでいる人。以下、「日本人」)の中には、「動物は受けた恩を『嫁ぐことで』返す」ということが、ファンタジーの「文法」「構造」であると、刷り込まれています。代表的なお話は「鶴の恩返し」です。その他にも、「鯉女房」「蛇女房」「狐の嫁入り」など、列挙にいとまがありません。
ここで大切なことは、『嫁ぐこと』です。その裏に隠された心情はともかくとして、一月三十一日、ブーケのシーンで、真琴は祐一に嫁いでいます。だからこそ、真琴シナリオは「日本人」にとって、上質のファンタジーとなりました。
わかりやすく、たとえばの話をしましょう。たとえば、真琴シナリオを「欧米人」に見せたとします。恐らくその場合、「ファンタスティック!こんなお話は見たことがない」と絶賛するか、「ナンセンス。まったくもって意味不明である」と拒絶するか、評釈が二分することでしょう。一見、まったく対照的な評釈のようにも見えます。しかし、両者は本質的には同質の評釈です。両者は、見たことがないから「すばらしい」と絶賛するか、見たことがないから「意味不明」と拒絶するかの差にすぎません。これは、「欧米人」が「動物は受けた恩を『嫁ぐことで』返す」という昔話を知らないことに基づきます(※8)。欧米人の中に刷り込まれているのは、「動物が恩を受ければ」「動物の姿のままで主人公に助言する」というお話と「動物が嫁ぐ場合」「実は呪われた王子さまであった」というお話です(※9)。
少々、横道にそれてしまいましたが、これで真琴シナリオが如何に「日本的」なファンタジーであり、それだけに「日本人」の心情を直撃する(これはファンタジーであると「納得」する)シナリオであるかが理解できたかと思います。真琴シナリオは、「日本人」にとってのファンタジーの王道であり(White氏)、破綻しようのない安定感を感じさせます。安定感は理解に繋がります。だからこそ、真琴シナリオは、「構造」(お話の形)の段階で、まず、プレイヤーにシナリオを読ませることに成功したのです。
これこそ、「様式」美というものでしょう。
逆に、作品に常に意外性を求める人は、『Kanon』が様式美に彩られていることが、シナリオを拒絶させたのでしょう。私としては、そのような人にも、もう少し様式美を味わうゆとりを求めたいものです。
■ 真琴シナリオのジュヴナイル
次に、真琴シナリオは、どのようにジュヴナイルとして成功したのでしょうか。
それは、プレイヤーに祐一の「失恋」の結果たる「成長」を、他のどのシナリオよりも明示できたところにあります。
何度も強調するように、『Kanon』は、「失恋」の結果たる「成長」の物語です。大切なことは、「失恋」という悲しい「現実」から祐一が立ち直り、結果、大人へと「成長」したことです。祐一の恋愛が成就したことはおまけでしかありません。
真琴シナリオは、他のどのシナリオよりも、祐一の「成長」を描くことに成功しています。
エピローグ祐一は間違いなく成長しました。妖狐の死によって大切な人を失うときの悲しみを畏れた天野と異なり、祐一は、天野との約束、「…相沢さんは、どうか強くあってくださいね」それを守りました。強く、人との接触を畏れませんでした。大切な人を失ったときの恐怖を、畏れませんでした。天野との約束を守ったことが、何よりも祐一の成長を雄弁に語っています。そんな祐一を見て、天野もまた、強く「成長」しました。「空から、お菓子がふってきたりすれば、…」と、冗談を言えるようになったのが、その証拠です。それに対し、祐一もまた、「思わないね。…」と、軽口で返します。人を成長させることができると云うことは、他でもなく、自身も成長している、ということです。心理学科の友人はそう言います。祐一は、天野を立ち直らせるほどに成長したのです。
俺と天野はこうしてたまに時間を合わせては、話をするようになっていた。
天野「約束は守ってくださっているようですね」
祐一「ああ。元気だけが取り柄のようなもんだ」
祐一「心配ないよ」
天野「そうですか。良かったです」
俺に感化されるように、天野も明るくなってきているような気がする。
嬉しかった。
天野「空から、お菓子が降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?」
祐一「思わないね。道に落ちたお菓子は汚いし、交通機関が麻痺してしまうだろ」
天野「相沢さんは、現実的すぎます」
祐一「いや、そうでもないよ」
天野「そうですか?」
天野「…そうですよね」
天野が、空を仰いだ。
俺たちは、同じ夢の中にいて、そこから帰ってきた人間だった。
天野「じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?」
くるん、と天野が体をひねって、俺の顔を覗き込んでいた。
祐一「そうだな…」
そんなことは決まっていた。
一月二十二日見てのとおり、祐一は、あっさりと「あきらめ」ています。一月二十五日までは、一時的に「挫折」し、「願い」はしましたが、天野との相互理解を通じて(一月二十六日)、真琴の消滅という、あらがいがたい現実を受け入れ、「現実逃避」「挫折」をしないことを決意したのです。これこそ、健全な少年の健全な反応でしょう。奇跡など起こり得ないことを認識し、奇跡を待つのではなく、現実を直視することを選んだ少年のジュヴナイルなのです。ここら辺が、EVA以来、繰り返し語られる、「現実逃避」した少年の、どす黒くどろどろとした、ただひたすら、内向的、内罰的でジュヴナイルに成り切れていない作品と決定的に違うところでしょう。私にとっては、『ONE』以来、久々に健全なジュヴナイルとなりました。
本当に、何もかも知っているのだ、この子は。
俺は一度深呼吸をして、自分を落ち着けることに精一杯だった。
天野「訪れる別れは、相沢さんがあの子に情を移しているほどに、悲しいものです」
天野「それを覚悟しておいてください」
祐一「どういうことなんだよ、それって…」
一月二十五日
真琴「春がきて…ずっと春だったらいいのに」
祐一「そっか。真琴は春が好きか」
真琴「うん。ずっと春だったら、ずっと元気でいられるのに」
俺はその言葉に、ただ願いを描いた。
祐一「もう少しの辛抱だな…」
俺はそう繰り返した。
一月二十六日
そして俺は、これから天野の後を追おうとしている。
同じ運命を辿ろうとしているのだ。
天野「…相沢さんは、どうか強くあってくださいね」
俺は大きく息を吸った。そして…
祐一「おうっ」
感謝の意味も込めて、互いを叱咤するような力強い返事をした。
天野と話をして、不安だった俺の胸中は幾分落ち着いていた。
訪れる別れが避けられないものなのだとしたら、真琴の想いに応え続けてやる。
それだけしかできなかったし、それで真琴が本望ならば、俺も満足だ。
では、何故、祐一は、ここで真琴の消滅を受け入れたのでしょうか。何故、「挫折」もなく、あっさりとあきらめてしまったのでしょうか。何故、祐一は叫ばなかったのでしょうか。
「真琴!おまえを放さない!」
それは、祐一が「日本人」だからです。祐一にとって、真琴がたとえ大切な存在であったとしても、所詮、真琴は獣畜生だからなのです。ここに、「日本人」特有の“動物恩報譚”観があります。
世界的に見て、日本の“動物恩報譚”は極めて特異なお話だそうです(小澤俊夫『昔話のコスモロジー ひとと動物の婚姻譚』講談社学術文庫)。例えば、「鶴の恩返し」。我々は、「鶴の恩返し」と聴くと、若者と鶴のもの悲しい別れを思い出すでしょう。「狐の嫁入り」も「鯉女房」も、同じようなお話でした。また、逆に、動物が婿入りする「白羽の矢」や「猿婿」なども、最後は、動物が成敗されるお話となっています。日本の昔話では、動物と人間は、絶対に結ばれない関係にあるのです(例外「さんしょううお女房」)。しかし、実はそれが、世界的に見て特異な結末なのです。意外に思えるかもしれませんが、世界的な傾向として、動物が、婿入り、嫁入りするお話において、最後はハッピーエンドになるのが普通なのだそうです。動物であっても、しっかりと養っていけるのであれば、両親は心から祝福するのだそうです。ご丁寧にも、「私、今幸せです。だから、とうさま、安心してください」と、嫁入りした娘が最後にそう締めくくるお話もあるくらいです。ここに、人間も自然の一部であるという思想が根付いていると読みとることも可能でしょう。一方、ヨーロッパの昔話は、徹底的に人間中心のお話です。前に二つ挙げたお話、動物が恩を返すお話も、動物が婿入りする話も、最後に、その動物は、実は悪い魔女によって呪いをかけられた人間であったことが明らかとなります。動物が出てきたと思わせておいて、そこで展開するのは人間のお話なのです。
こう説明すると、いい加減、日本の昔話の特異性が解ってくると思います。日本の昔話は、動物が婿入り、嫁入りを申し込む時点で、「人間も自然の一部」であるという発想があります。その一方で、同時に、「所詮、獣畜生は、獣畜生」であるという発想も根付いているのです。それが、「鶴の恩返し」での実にもの悲しい別れのシーンとなって現れますし、「猿婿」ではあまりに理不尽な猿婿謀殺のシーンとなって現れるのです。
この、相反する二つの心情のぶつかり合いを表現している日本の昔話を踏襲した真琴シナリオに、我々は、「日本人」として、ファンタジーの奥の深さを感じたのでしょう。
私は、3.において、以下のように書きました。
また、真琴シナリオは、「消失→帰還」のファンタジーと思わせておいて、実は別の形でファンタジーを描くことに成功したシナリオでした。そうする形でヒロイン真琴のジュヴナイルを回避したのが、真琴シナリオ成功の一因です。「鶴の恩返し」に少女のジュヴナイルという「主題」が含まれていなかったのが、功を奏したのでしょう。つまり、真琴シナリオは、「消失→帰還」のファンタジーを描くでなく、真琴のジュヴナイルを描くでなく、ただ、「日本人」の“動物恩報譚”を描くことによって、別れのわびしさを表現し、そこに、祐一のジュヴナイルを重ねた作品だったのです。結果、より、祐一のジュヴナイルを引き立てるシナリオとなっています(※10)。 ■ 祐一の「離別」
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